歴史・由緒
慶長八年 (1603)
徳川代官風祭太郎左衛門、摂津国西宮大神を勧進
慶長十四年(1609)
代官小林十郎左衛門時喬、神域拡張
貞享二年 (1685)
代官笠原七郎兵衛、神域を更に拡張、現況整う
元文四年 (1739)
地元有志の祭祀世話人会発足、社殿大修理行う
大正六年 (1917)
拝殿改修
昭和二九年(1954)
神楽殿改修
戦国時代、関東地方は古河の公方勢と上野の上杉勢が対立、足利地方は幾度も戦場となり、街は焼かれ、田畑が乱されました。徳川氏の代官風祭太郎左衛門は疲幣した足利を再興するため尽力しましたが、その一つとして産業の神様摂津国西宮大神を栗崎(現在地)に勧進しました。その後の代官たちも神域を整備し、祭りを盛大にしてきました。その霊験はすぐに顕れ、足利は織物業が飛躍的に発展し、作物の生育もよくなり、街びとたちは栗崎の恵比寿様お陰とお参りする人が増え続けました。噂は関東一円に広まり、江戸・相模・武蔵からも参詣にくるようになり、各地に恵比寿講ができました。
代官所の庇護で始まった神社は宝永二年(1705)足利藩が誕生すると、地元有志に任され、祭祀世話人会が結成され、以来三百年間、地元世話人会の人々によって守り続けられてきました。
江戸時代、境内で勧進大相撲や近くの田んぼで小屋掛けの芝居まで行われ、関東有数のお祭りで知られるようになりました。現在も周期大祭には二百件余の露天が並び、商売繁昌の祈願とお礼参りのため、参詣で賑わいます。近年は七福神めぐりの神社として訪れる人も多くなっています。